がんばって身につけたはずの力が、いつの間にか通用しなくなっている。うまくいった方法を繰り返しているのに、なぜか手応えがない。そんなときに読みたいのが、600年以上前に能を大成した世阿弥の言葉です。
世阿弥(1363年ごろ~1443年ごろ)は、室町時代の能役者・能作者です。父の観阿弥とともに猿楽(のちの能)を発展させ、将軍足利義満の庇護を受けました。『風姿花伝』は、父から受けた教えをもとに世阿弥がまとめた芸の伝書で、一族の後継者に向けて書かれた秘伝の書でした。
ここでは『風姿花伝』と、のちに書かれた『花鏡』から、名言を紹介します。原文は歴史的仮名遣いのまま載せ、解説で現代語の意味を添えています。
世阿弥の名言集
「稽古は強かれ、情識はなかれ」
-世阿弥
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出典:『風姿花伝』序(原文は「一、稽古は強かれ、情識はなかれとなり。」)
『風姿花伝』の序の結びに置かれた言葉です。稽古は厳しく、たゆまず行いなさい。そして「情識」、つまり自分勝手な思い込みや慢心は持ってはならない、という意味です。
努力することと、自分のやり方に固執しないこと。その二つをセットで求めている点が、世阿弥の教えらしいところです。
「時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり」
-世阿弥
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出典:『風姿花伝』第一 年来稽古条々(二十四、五歳の条)
世阿弥は、年齢ごとの稽古の心得を説く中で、24、5歳のころを取り上げます。若さや目新しさで観客に喜ばれることがあっても、それは一時的な「時分の花」にすぎない。それを本物の「まことの花」だと思い込む心こそが、本当の花から遠ざかる原因だ、という意味です。
若いうちの成功や、一時の評価に浮かれそうなときに、耳の痛い言葉です。
「初心と申すはこの頃の事なり」
-世阿弥
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出典:『風姿花伝』第一 年来稽古条々(二十四、五歳の条)
前の言葉と同じ条にある一文です。世阿弥の言う「初心」は、ただの「始めたばかりのころ」ではなく、ある程度できるようになり、人にも認められ始めたころの未熟さを指しています。
この考え方は、後に『花鏡』で説かれる「初心忘るべからず」にもつながっていきます。
「上手は下手の手本、下手は上手の手本なり」
-世阿弥
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出典:『風姿花伝』第三 問答条々(原文は「「上手は下手の手本、下手は上手の手本なり」と工夫すべし。」)
下手な人が上手な人を手本にするのは当然ですが、世阿弥は、上手な人も下手な人を手本にせよと言います。下手な人にも良いところがあれば学び、悪いところを見れば自分を振り返る材料にする、ということです。
経験を積んで教える立場になった人ほど、胸に留めておきたい言葉です。
「花は心、種はわざなるべし」
-世阿弥
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出典:『風姿花伝』第三 問答条々
世阿弥は、観客を感動させる芸の魅力を「花」にたとえました。その花を咲かせるのは心の工夫であり、そのもとになる種は、稽古で身につけた技(わざ)である、という意味です。
技術だけでも、気持ちだけでも花は咲かない。両方がそろってはじめて、人の心を動かすものが生まれるということです。
「この芸とは、衆人愛敬を以て、一座建立の寿福とせり」
-世阿弥
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出典:『風姿花伝』第五 奥義
能という芸は、多くの人々に愛され親しまれることによって、一座(劇団)を成り立たせる幸福とするものだ、という意味です。
自分の芸を極めることだけでなく、観る人に喜ばれることを大切にした世阿弥の姿勢が表れています。一部の目利きだけでなく、幅広い人に届けることを重んじた考え方は、今の仕事にも通じます。
「花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり」
-世阿弥
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出典:『風姿花伝』第七 別紙口伝
「花」とは何かを説いた有名な一節です。観客が感じる「花」「面白さ」「めずらしさ」は、同じ一つのものだ、という意味です。
世阿弥にとって花とは、観る人の心に生まれる新鮮な驚きのことでした。どれほど優れた芸でも、見慣れてしまえば花ではなくなる。だからこそ、常に工夫が必要だと説いています。
「能も、住する所なきを、まづ花と知るべし」
-世阿弥
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出典:『風姿花伝』第七 別紙口伝
花が散り、また咲くからこそ人は花を愛でるように、能も一つのところにとどまらないことこそが花だと知りなさい、という意味です。
一度うまくいったやり方にとどまり続けると、いつか飽きられてしまう。変わり続けることの大切さを説いた言葉です。
「秘する花を知る事。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからずとなり」
-世阿弥
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出典:『風姿花伝』第七 別紙口伝
世阿弥の言葉の中で最もよく知られた一節です。隠しておくからこそ花になる、隠さなければ花にはならない、という意味です。
ここでの「秘する」は、ただ出し惜しみをすることではありません。観客に手の内を知られていないからこそ、思いがけない感動が生まれる、という演出の考え方です。すべてを見せないことで生まれる魅力は、今の表現や仕事の場面にも当てはまります。
「時の間にも、男時・女時とてあるべし」
-世阿弥
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出典:『風姿花伝』第七 別紙口伝(直前に「去年盛りあらば、今年は花なかるべき事を知るべし。」とあります)
「男時(おどき)」は物事が勢いに乗っているとき、「女時(めどき)」は運が向かないときのことです。去年が盛りなら今年は花がない年になることもあると知っておきなさい、短い時間の中にも良い流れと悪い流れがある、という意味です。
どれほど工夫しても、良いときがあれば必ず悪いときもある。調子の波を自分の努力不足と責めるのではなく、避けられないものとして受け入れたうえで向き合う、という考え方です。
「家、家にあらず、継ぐを以て家とす」
-世阿弥
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出典:『風姿花伝』第七 別紙口伝
家とは、血筋でつながっていれば家なのではなく、その道を受け継いでこそ家と言える、という意味です。
形だけを受け継ぐのではなく、中身を受け継ぐことが大切だという考え方は、家業や伝統に限らず、組織やチームで何かを引き継ぐ場面にも通じます。
「是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。」
-世阿弥
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出典:『花鏡』奥段(原文は漢文で「是非初心不可忘。時々初心不可忘。老後初心不可忘。」)
世阿弥が60代で書いた『花鏡』の結びで、「初心忘るべからず」という一句には三つの口伝がある、として挙げられた言葉です。
若いころの未熟さを忘れないこと(是非の初心)、それぞれの年代で初めて挑んだときの未熟さを忘れないこと(時々の初心)、そして老境に入ってからも、その年齢で初めて向き合う芸があると心得ること(老後の初心)。今は「始めたころの新鮮な気持ちを忘れるな」という意味で使われることの多い言葉ですが、本来は、未熟だった自分を覚えておくことで、成長を止めないための戒めでした。
「命には終りあり、能には果てあるべからず」
-世阿弥
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出典:『花鏡』奥段
人の命には終わりがあるが、芸の道には終わりがあってはならない、という意味です。「老後の初心」を説く流れの中で書かれた言葉で、年を重ねてもなお新しいことを学び続けよ、という世阿弥の覚悟が表れています。
「初心忘るべからず」と「離見の見」に見る、自分を外から見る目
世阿弥の言葉には、自分を客観的に見る視点が繰り返し出てきます。「初心忘るべからず」が、過去の未熟な自分を忘れないという時間の上での視点だとすれば、『花鏡』に出てくる「離見の見(りけんのけん)」は、空間の上での視点です。
「離見の見」とは、演じている自分の姿を、観客の側から見るように捉える心の目のことです。舞台の上では、自分の目に映るものしか見えません。けれど観客には、自分の後ろ姿まで見えている。その見え方を想像しながら演じなさい、と世阿弥は説きました。
過去の自分を覚えていること、他人の目に映る自分を想像すること。どちらも、うまくいっているときほど忘れがちな視点です。世阿弥の言葉が600年たっても読まれ続けているのは、芸の世界に限らず、何かを磨き続けようとするすべての人に当てはまるからでしょう。
出典・参考資料
『風姿花伝』の原文は、roudokus.com(世阿弥『風姿花伝』現代語訳つき朗読)の原文で照合しました。『花鏡』奥段は、日本古典文学大系65『歌論集 能楽論集』(岩波書店)を底本とする翻刻で照合し、あわせて観世文庫の「世阿弥のことば」を参照しました。現代語の意味は筆者がまとめたものです。


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